石炭産業が盛んだった時代、東京の人口密度よりも高かった島があります。
長崎港からわずか18kmほどに浮かぶ小さな島。ここは端島、通称「軍艦島」です。エネルギー革命が起きて徐々に石炭のニーズが変化していた頃、1971年に閉山となり、同年より無人島となりました。
その後、建物の多くが残されたことで、約半世紀にもわたり風雨にさらされた姿を今でも見ることができます。いったいここでの暮らしはどのようなものだったのか。
島を南から見た様子。左が外洋側、右が湾側です。海底から石炭を算出し、積み込み桟橋から船に積載するために、比較的海の穏やかな湾側に炭鉱の施設が造られました。
外洋に面した側は、高波の防波堤の役目も果たすために住居棟が造られました。外周部は高さ10m程の堤防で囲まれています。
炭鉱の建物の多くが崩壊していますが、立て坑につづく桟橋と階段は辛うじて残っています。地下1,000mへの掘削作業を行うために鉱員が昇り降りしていた階段です。
マンションやビルについているエレベーターは秒速1m。ここの立て坑のエレベーターは秒速8m、落下するような感覚だったそうです。
島の頂上にある貯水塔と灯台。小さな島に多くの住民が住むことで、水は貴重な資源でした。当初は海水を蒸留して使用、後に船により運搬、そして昭和32年には対岸の町から海底送水管により水が送られ、この貯水塔に運ばれました。各建物へはここから水が送られました。
左側に見える灯台は平成になり造られたもの。1974年に閉山してからが一代目です。炭鉱があった時代は24時間3交代制でフル稼働していたため、島は常に明るく、船の航行には不便がありませんでした。
島の中央に掘られたこのトンネルは、島に平地がないために、採掘による捨て石(ボタ)を捨てる場所がないことから、対岸の住居棟下へベルトコンベアで運ぶためのもの。ここではボタは海に捨てられました。
何かを巻き上げるときに使ったウインチでしょうか。潮風に当たりながらさび付いた工業製品も、時を映し出す証拠品です。
住居棟の様子。右から島内で一番古い7階建ての30号棟、中央が5階建ての25号棟、左が6階建ての31号棟。
30号棟は、日本で最初の鉄筋コンクリート造高層アパートです。1916年(大正5年)です。造られた当初は4階建て、その後7階建てに増床されました。
屋上には柱から伸びるものが見られます。ここには手すりが付けられていましたが、将来さらに上に増せるように構造の一部を伸ばしていました。
この建物は鉱員住宅ですが、一世帯の部屋の大きさは6畳一間、ここに家族4,5人が暮らしていました。部屋の入口には各部屋ごとに「かまど」があり、炊事場はフロア共用、公衆浴室は地下にありました。
かまど用の排気シャフトが残っています。当初は薪、やがてプロパンガスになりましたが、この排気シャフトは活用されました。
外洋に面した31号棟、窓からはさぞ景色が良かったでしょう、 とはいかず、海に面した窓は廊下側です。台風や高波は高い堤防でさえも超えることがあり、打ち付ける風雨から生活を守るためでした。
当時は気密性の弱いサッシでしょうから、雨水も入ってきたことでしょう。
島の南側にあった25mプールと幼児用プール。島には砂浜がないため、子どもたちが泳げるようにと造られたプールです。ここには海水が汲み上げられました。
ある時からぴたっと時間が止まった空間。1960年(昭和35年)頃にはこの小さな島に5,000人以上が暮らしていました。石炭産業真っただ中の時代を過ごした島。ここから算出される良質な石炭は燃料用ではなく、船で八幡製鉄所に運ばれ、製鉄に使われました。
高層アパートでの暮らし、昇り降りは大変だったと思いますが、各棟が渡り廊下でつながり、車のない賑やかな回廊のある暮らしだったことでしょう。家賃や水道光熱費は全て会社(三菱)持ち。
東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年、日本ではまだまだテレビが家に普及していなかった時代に、ここではほぼ全戸にテレビがあったことでも、当時の生活が伺えます。
65号棟の10階部分(突起部分)にあった幼稚園。エレベーターはありませんでしたが、密集した大都会の中ではたっぷりの日差しが感じられる場所でした。
島の北側にあった小中学校。1階から4階までが小学校、5階と7階が中学校、6階には講堂・図書館・音楽室。7階には理科室などの特別教室がありました。校庭はこの島で唯一の土が敷かれていました。
島を南西から見た姿、この角度から見ると戦艦土佐に類似していることから、軍艦島と呼ばれるようになりました。職住一致の究極の形だった島暮らし。この街を一つの企業が造ることができた程、石炭産業が潤っていた時代。
その中で暮らしていくために、病院、学校、公衆浴場から、パチンコ屋、パブ、映画館などの娯楽まで、それは賑やかだったことでしょう。閉山を迎える頃でさえ、約2,000名が暮らしており、閉山から3ヶ月後には無人島になったことが、まるで熱い鉄が急激に冷やされたように、どこか「街の名残惜しさ」が感じられる所以なのかもしれません。
20200314